久我山稲荷神社

久我山稲荷神社

久我山の昔話1
 

◆◆ 想い出すままに

子供の頃の想い出

日露戦争の真最中、明治三十八年一月十四日、私は東京府豊多摩郡高井戸村大字久我山字中屋敷一六六番地で生まれ、そこで育ちました。 その頃の久我山は、戸数八十戸内外のまことに平和な農村でした。大方は農家ですが、駄菓子屋が三軒、酒屋と肥料雑穀を扱う店が二軒、医者、床屋、材木店、大工が各一戸づつあり、それに旦雇い人夫をしながらわずかの田畑を耕していた家が数戸と、百姓をするかたわら、コンニャクの製造卸しをしている家、せんべいを焼き卸し売りをしている家が各一軒村の中にあるという、極く平凡な農村でした。村の中央を西より東へ神田川が流れていて、その両岸の台地にほとんどの農家が住みついていたのです。

ヤマという字が付くだけに、その台地は雑木林でおおわれていました。私の家から井之頭まで行く道は、周囲がすべて雑木林で、春の若芽の頃や秋の紅葉の景観はそれは見事で、今も目に鮮やかです。野鳥の種類も多く、入梅時には郭公やほととぎすの鳴き声が遠くの林から聞こえ、夏になれば、夕暮とともにコウモリが飛び交い、フクロウが夜の調べを奏でます。そのほかキジ、山鳩、ミミズク、川せみ、尾長……と、久我山は野鳥の天国でした。それで秋の狩猟解禁ともなると、都会からハンターが鉄砲をかついでやってきたものです。

キノコ狩りも秋の楽しみの一つでした。朝早く林に入り、ススキの根をかき分けて初茸やナラ茸をさがす面白さは、今の人にはわからないかもしれません。嵐の去った翌朝ですと、ザルがいっぱいになる程山栗が落ちていたものです。そして冬になり雪が降ると、ヤマの雪景色は南画そのものでした。

久我山を流れる神田川は、水源が近いため水がきれいで、川の水をそのまま飲む人さえいました。鯉、鮒、ハヤ、鰻、鯰、どじょう、タナゴと魚の種類も豊富で、春先の暖かい日にはよく魚取りをして遊びました。ビンドの中にゆでたさつま芋を入れて、川の藻の陰に一時間も仕掛けておくと、四、五十尾は必ず入っていたもめです。また流し針といって、麻糸に針をつけ、どばミミズかどじょうをエサにして、夕方川の流れを見て魚の通りそうな場所にそれを仕掛けておきます。翌朝早くいってみると鰻や鯰がかかっているのです。その頃は釣り道具も手製で、釣糸は麻を細く絢って作り、オモリはビスの雌ネジを用い、桐の枝を好みの形に削ってウキを作ります。そして竹薮から切ってきたシノ竹を釣り竿にして釣るのですガ、それでも鯉や鮒がよくかかってきました。

四月の末頃、堰をはって田の用水路へ水を流すと、今まで本流にいた魚が用水路へ上ってきます。夕方うす暗くなるのを待って、松明で用水路を照らし、映し出された魚影をすかさずモリで突くのです。多いときには鯰を十五、六尾突いたこともありますし、時には鯉も捕れました。

鯉といえば、私の父は鯉突きの名人でした。現在の井の頭駅と三鷹台駅の中間あたりに堰があって、その上流が沼池になっていました。日中は葦の暗がりに潜んでいる鯉が、夜になるとその沼池に集まってくるのです。産卵時には、雄の鯉が白子を掛けに集まり、沼池の到る処でボカボカ跳ねるのです。それを岸辺からモリで突くのです。父は、三尺もある大鯉をモリで捕ってきたことがありました。鯰や鰻とちがって、鯉を突いたときには強い手応えがあり、モリ突きの醍醐味を味わえます。

夏になると、男の子も女の子も川へ泳ぎに行きます。長く川の水に浸かっていて寒くなると、田んぼの温かい水の中でしばらく遊び、また川で泳ぐ、といったことをして、子供たちは夕方まで川で遊んでいたものです。家のまわりはすべて雑木林なので、そこに住む狐によく鶏を取られました。ある日昼食を食べていると、けたたましい鶏の鳴き声がするので鶏小屋へとんで行くと、狐が鶏をくわえて林の中へ逃げ込むところでした。そこですぐ、狐を追いかける必要はありません。しばらく待って、一家総出で林の中へ鶏を捜しに行きます。狐は決して温かい肉を食べず、獲物を必らず土の中へ埋める習性があるのです。そのときも難なく鶏を見つけ出し、家中で食べてしまいました。

私たちの少年時代、正月というのは実に楽しいものでした。男は凧揚げ、こままわし、女は羽根つき、凧はいくら高く揚げようと、電線など無いから何の心配もありませんでした。また楽しみの一つに獅子舞いがありました。村には噺子連中という若衆の集まりがあったのです。正月になると獅子頭をかぶり、家々に門付けして何がしかの金をもらい、沢山くれた家では獅子舞いの他におかめとかいろいろの馬鹿踊りをするのです。子供たちがそのあとをついて歩き、今度はOOさんのおかめとか、△△さんのひょっとこなどと、とても人気のあったものです。

私の家へくると、お酒を出しお金も沢山出したので、ずい分長い間踊っていたのを覚えています。若衆はそのお金で、太鼓の修理とか一ヶ年の費用雑費にあてていたようです。その後お噺子が絶えてしまいましたので、祭りの時に余りにも淋しいというので、戦後になって復活したのですが、昔のお噺子とは少し間が違うようです。

当時久我山では、養蚕による現金収入で生計をたてている農家が多く、私の生家は、村で一、ニの養蚕家でした。春蚕(ハルゴ)と秋蚕(アキゴ)があり、秋には二回程取り入れするのですが、収穫量は春蚕の方が多く、それらを合わせると年間で七、八十貫位の収穫がありました。私の家の家族構成は、祖父母、父母、兄第が七人、作男二人、女中一人の大家族で、それに養蚕時には、臨時にお手伝いの女性が一人きます。養蚕の時には、それでも足りないくらい忙しく、母は連日二時位.しか眠らなかったようでした。

農家が一番忙しいのは六、七月の二ヵ月で、六月初旬に春蚕が終わり、,麦の取り入れ、秋作の準備、田植え……と、農作業が集中します。それをすべてすませることを.総耕上がり"と言い、久我山では七月二十四日、つまり夏祭りの日がそれに当たります。"総耕上がり"にならないことには、夏祭りに行けません。私の家では例年七月二十日までにすべて終えて、夏祭りを待っていたものです。そんなわけで、夏祭りは開放感に溢ふれ、また近郷近在からも大勢集ってくるので、それは大変な賑わいでした。

同窓会

私が小学校を卒業しその上の高等科を出た頃、母校の高井戸第二小学校の同窓会が、どういう訳か中断されたままになっていました。当時校長をしておられた山本先生が、どこの学校でも同窓会があるのに、この学校にはないのが淋しい、なんとか同窓会をつくってはくれまいか、と秦一郎君と私に話をもちかけてきたのです。私たちは友人の間を説得してまわり、同窓会らしきものをつくることができました。ところがその頃の私たちは小遣い銭をあまり持っていないので、総会を開こうにもなかなか会費が集まらないのです。会計係の私は、困り果てて校長先生に相談をしに行きました。先生は、何か事業をやってその金で会を運営したら、という意見でした。先生の案というのは映画館の入場券の販売なのです。早速役員会を開きましたが、他に名案も出ないので先生の案を実行することにしました。

先ず西荻窪の富士館へ交渉したところ、館側は喜んで承諾してくれました。その方法というのは、当時二十銭だった入場券を同窓会が十五銭で売り、映画館には十銭支払うというものでした。同窓会で特別券を発行し、月末に私が映画館へ行って精算するのです。同窓会の費用は、その差額ですべてまかなうことができました。山本先生のお陰で、楽しい 同窓会を続けることができたのですが、青年会の仕事が忙しくなってきたので退会しました。

青年時代

もともと久我山は、東組、中組、西組の三部落に分かれていて、私の青年の頃、東組が二十三戸、中組が三十五、六戸、西組が二十七戸でした。特別な行事のない限り、各部落が一年交替でその年の村の行事を取り仕切ることになっていて、それを"年番"といいます。ただ秋の大祭だけは別で、三つの部落が一つになって祭りを催しました。素人芝居の廻り舞台を廻すときには、若い衆が総出で床下に入り、皆でヨイショと掛け声を出して廻したものです。ある秋の大祭で忠臣蔵の通し狂言をやったとき、最後の討入りの場の頃には夜が明けてしまったこともありました。 村には青年会があって、高等小学校を出ると青年会の仲間に入れます。私も、高等科を卒業した大正八年に青年会へ入会しました。現在の井の頭線久我山駅の西側踏切あたり、村の中心部に位置する場所に、青年倶楽部という平屋の建物がありました。そこに青年会の仲間が集まり、剣道、銃剣術、囲碁将棋、読書等各自が好きなことをして楽しんだものです。久我山の青年会が発足したのは、恐らく私が生れる以前だったと思われますが、当時の近隣の村には無い組織でした。村での奉仕の仕事は、殆ど青年会が手がけていたようです。

私が青年会へ入会して間もない頃、井之頭一帯が恩賜公園として開園されました。久我山でもそれにあやかろうと考えました。それには先ず道路を整備して、牟礼を迂回しなくても久我山から直接井之頭水門まで行けるようにした上、道の両側に桜の木を植えて桜の名所にしょうということにをつたの.です。このとき青年会は、既設の道を拡張する工事を受けもち、道筋の地主が桜の苗木を植えました。春の花見時にはきれいに咲いていたその桜の木も、今では立教女学院下の裏門の近くに一本と、現在秦工務店所有になっている雑木林にある一本が、その時のなごりとして残っているのみです。

やがて近郷の各部落にも、次々と青年会が誕生しました。当時小学校の運動会は、高井戸村各部落全体の連合で行なわれていて、青年会も参加しました。文字通り村全体の大運動会で、呼びものは最後の各青年会のリレーによる優勝旗の争奪戦です。常勝の下高井戸から、今年こそは優勝旗を奪わなくてはと、若手の精鋭四名を選手として出し、見事その年のリレーに優勝したのです。四人は優勝旗をかついで久我山までパレードして帰ってきました。村では、夜を徹しての祝賀会が開かれました。その栄光の四人の名は、大熊政雄、倉本九一、秦政秋、秦八千代の各氏です。久我山は小さな部落ですが、いざという時には結束して最後までなしとげる、この精神は、久我山の伝統としていつまでも残したいものです。

大正十年頃、当時摂政の宮であらせられた今上陛下が、深大寺へお成りになったことがございました。

そのお帰りの道順に久我山があたっているというので、その日は朝から道路の清掃をするやら大変な騒ぎでした。その順路にあたる宮下に、一軒のあばら屋がありました。屋根の麦わらが風雨で腐り穴だらけになっていて、家の中で月見ができるなんていわれた程です。これではあまりに見苦しいというので屋根にむしろを掛けて穴を隠したりしました。そんな騒ぎも静まり、やがて乗馬姿もりりしい殿下が、侍従を従えてお通りになりました。

戦後、天皇陛下の地方巡幸を歓迎するニュースをテレビで見かけますが、それと全く同じ光景でした。

関東大震災の体験

私の思い出の中で、最も印象が深いのは関東大震災です。

あの前の晩、八月三十一日の夜十一時頃、私は野菜物を牛車に積んで、神田市場へ出掛けました。その夜は、明け方まで雷雨が続いていたのを覚えています。淀橋の坂の上で、大熊誠一君と一緒になりましたが、大熊君の行き先は京橋の市場なので、麹町で右と左に別れました。私は左へ曲がり、神田田町の紀の国屋という問屋へと急ぎました。問屋へ着いた頃には雨も小降りになり、十時頃にはすっかりあがり、大変な猛暑になりました。

午前十一時頃、積んでいった野菜物も全部売り切り、問屋の主人が仕切りを書き始めようとした時でした。突然大きな地鳴りの音が聞こえてきました。何だろうといぶかっていると、続いてものすごい地震がきたのです。家の中にいた人は、あわてて外へとび出しました。問屋の前の道路が広いので、皆そこに集まってきました。屋根瓦がガラガラ落ち、そのために瓦を止めてある土がほこりになって舞い上がり、狭い路地を億さんだ二階家同士は、まるで鉢合わせをしているように大きく揺れていました。そのうちに須田町の方向で火の手が上がりました。

「これは大変なことになる。早く皆さんお帰りなさい。仕切りは後で出しますから、早く早く…」 と、紀の国屋の主人にせきたてられ、私は中組の大熊七五郎さんと二人で問屋をとび出しました。地理に詳しい七五郎さんの後を追って、細い路地を無我夢中で通り抜け、気がついたら一ッ橋でした。

後を振り返ってみると、今通ってきたあたりは一面火の海でした。須田町の火災というのは、西瓜糖を製造している万惣の工場で、なんでも西瓜を煮つめている釜の上に、建物がつぶれて火事になったということでした。火の手は私たちの後を追うように延びてくるのです。市場の方向には真赤な火柱が上っていました。すると、前方のトラックの上で、その火柱を見ている人が数人いるではありませんか。その一人が、なんと小学校時代に同級生だった宮沢君なのです。私が思わず大きな声で呼びますと、余りよく燃えているので見ていたのだそうです。私が、 「牛込市ヶ谷佐内町に伯母がいるので、様子を見に行きたいから、一しょに行こう」 と言うと、宮沢君も牛込西五軒町へ行くと同行することにしました。麹町から新宿へ出る大熊さんとはそこで別れ、私たちは九段坂を上がり富士見町を通り、市ヶ谷見附に出ました。市ヶ谷八幡神社の下で、宮沢君に牛車をみていてもらい、私は境内をぬけて陸軍士官学校脇を通り、伯母の家へ駆けつけました。伯母の家は、秀英舎(現在の大日本印刷)の前で薪炭商を営んでおりました。伯母の家は無事で、私が来たことを大変喜んでくれました。急いで神社へ戻ってみると、ほんの二十分位前には火災など見えなかったのに、先程通ってきた富士見町一帯が燃えさかっているではありませんか。宮沢君も急に家のことが心配になり、そこで私たちは別れましたが、友人のありがたさを身にしみて感じました。

谷町を通り成女高等女学校前までくると、火災のため新宿は通行止めになっている、と知らされました。それでは引き返して、柳町から大久保のぬけ弁天へ出るより仕方がありません。大久保へ来てみると、大久保銀行の赤レンガの建物が、見事に崩れ落ちて道路をふさいでいるのです。またもや廻り道をして、やっとの思いで淀橋へたどり着いた時には、本当にホッとしました。中野坂上の氷屋で一息いれて、中野にある姉の婚家先へ着いたのは、午後五時頃でした。

姉の家には、私の身を心配して、兄が自転車で家から駆けつけてきていました。そこへ私が立ち寄りましたので、兄は安心してすぐ引き返してゆきました。姉の家で遅い昼食をご馳走になり、余り遅くならないうちにと牛車に乗り、家に帰ったのは夜の八時頃でした。それでも、久我山では極く早く帰った方で、夜中の十二時過ぎになって、やっと帰ってきた人もいたようです。

私の家では、大谷石で積み上げた蔵の途中が崩れて、使用不能になっていました。土蔵なら大丈夫なのですが、大谷石のため崩れてしまったのです。久我山の被害のうちで、私の家が一番ひどかったのです。その夜は度々くる余震のため、家の中では寝られずに外で一夜を明かしたのです。

久我山の大洪水

久我山で大洪水なんていうとおかしな話ですが、久我山には久我山なりの大出水があったのです。大雨が降れば神田川はすぐに氾濫しますが、私の記憶では昭和十二年六月二十七日、これ程の大出水はありません。

私はその頃花作りをしていたのです。その日も朝早く、雨の中を渋谷の市場へ花を持って行き、田植えをするので急いで九時頃帰ってきました。午前中に少しでも多く植えようと田に行ったのです。雨は益々強く、一時間一〇〇ミリ近い集中豪雨なのです。田の水はみるみるうちに増水、神田川の本流はたちまち増水して、田も畔道もわからなくなってしまいました。こんなに水が多くては稲も植えられないので、少し早いが十一時頃に止めて昼食に帰りました。

雨は益々ひどく雷まで加わり、これではとても田植えどころではないので、魚取りでもと網を持ち出して、牟礼堰の上で始めたのです。するとたちまち三尾ばかり、大きな鯉が網にかかったのです。これは面白いと父も手伝いにきました。それを見ていた堰守の春さんという男が、私もやろうと三角網を持ち出し、私と反対の堰の水の落ち口で始めたのです。するとそちらもたちまち鯉、鮒、鯰がどんどん取れるのです。水は刻々増水するばかり、とうとう立っている事もできないのでやめてしまいました。

次の日には、宮下の者たちは田の中に鯉が沢山いると言って、もりを持って鯉を追いまわす人、イカダを作って追いまわす人やら、大変な騒ぎでした。

水は一週間たってもなかなか引かず、十日後になってようやく水が引いたのです。と.ころが水の引いたあとの稲は、水あかがついていて洗い落すのに一苦労しました。また田植えのすんでいない田もあり、苗は皆流されてしまったので、それを少しでもとひろい集めたりして、ようようにして田植えをすませたのが七月十日頃ですから、収穫も大した事はありません。おして知るべしでした。あんな大雨にあった事は今までありません。

あの時には西高井戸の窪地はニメートル以上も出水し、消防ポンプで毎日汲み上げていました。また吉祥寺の成蹊学園の裏では、人家が流されたとの事です。あの雨の後四、五日たって新川の友人の所へ行ったらこれが大変で、新川の今の十字路の辺りから一面湖水なのです。三鷹の役場から学校へ通じる道は深い所で一メートル半程もあり、小学校へ通う子供たちはボートで青年団員が送り迎えをしていました。

今あのような大雨が降ったらどうなるか、一時にくる出水、それこそ考えただけでも恐ろしくなります。一日も早く、神田川の改修工事を進めていただきたいと思います。

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