久我山稲荷神社

久我山稲荷神社

久我山の昔話1
 

想い出すままに

古老の語り草

祖父の体験談

昔、甲州街道を参謹交代や早駕籠などが通る時は、近所の若い者ががりたてられて、臨時の駕籠かきになりました。ある時、祖父も鳥山から下高井戸の宿まで、早駕籠をかついで威勢よく出かけました。ところが上高井戸辺りまで来た頃、乗っていた武士が駕籠の中の手綱のから手をはなしてしまったのでしょう、そんな事とは知らず祖父たちは勢いよく走っていたものでどうした事か武士を外へ放り出してしまったのです。驚いた祖父たちが、一目散に逃げて頭を地につけて謝っていると、くだんの武士が、 「早くこちらへ来い。急用あって早駕籠に乗ったのだから、罪はとがめないから早く行ってくれ」 祖父たちは又集まって武士に謝り、無事に下高井戸の宿場に着き、次の人夫たちに引き渡して帰ってきました。あの時には最早命は無いものと青くなって謝った、あれがもし気の早い武士だったら必ず手討ちになっていただろう、と後になって語り草になりました。

もう一つは、分家して何年か後の事です。明治維新、上野の戦争、彰義隊の頃の事です。昔、祖父たちの時代には、農家では下肥が唯一の肥料だったのです。天秤棒で桶を二はいかついで、江戸まで取りに行ったのだそうです。約八○キロ程の重さでした。その当時の桶が残っていたのですが、壊れてしまって今はありません。

私の祖父も駕籠かきをした程ですから、肩はかなり強かったようです。下肥を取りに行く時はまず桶を二はいかつぎ、その上に野菜とか薪、粗朶などを積み、下肥を取る家などに売り、焼芋などを子供の土産に買って帰りました。行先は麹町で、その時も家を出る時は何も知らず、いつものように四谷見附まで行きました。昔は四谷見附にも門があって、扉を開けて中に入ったのだそうです。いつものように扉を開けて中へ入ると、武士の死体が三体程、こもが掛けてありました。門番の武士から上野の戦争の事を聞かされ、これから先は通行禁止だから引き返すようにと言われ、びっくりした祖父は何もせずに帰ってきたそうです。

昔の農家では、まだ大八車など買う事が出来なかったのです。わずか桶二はい肩でかついで一日がかりで麹町辺りまで取りに行っても、暮しが成り立っていたのです。今の人たちが見たら何と思うでしょう。

また祖父の時代には神田川も上水の為か、一日一回巡査がめぐっていたのです。子供などが魚釣りをしていると、警棒でおどされたのです。ある日、祖父が田の仕事をして昼食に家へ帰る途中、川のほとりを歩いてくるととても大きな鯉がいたので急いで家へ戻り、しの竹で作った「す」と六本骨というくず籠を持って、先に見た鯉のいた場所より少し上の方に「す」を立て、その間を六本骨の籠ですくったのです。すると、三尺もある大鯉をすくい上げたのです。その話が村中に伝わり、巡回中の巡査の耳に入ってしまったのです。巡査はただちに祖父を後手にしばり、新宿警察署に引かれてしまったのです。村では大騒ぎになり、世話役が警察に行き嘆願書を出してくれたのです。そのおかげで、一晩泊められてから帰されたとの事です。 この話は後々までの語り草になっています。

光明寺騒動

すでに秦十四雄さんも発表しておりますが、昔から久ヶ山の古老は、この話を言い伝えてきたものです。

三百年以上も前の事です。稲荷神社の西側の坂上に、久龍山光明寺という寺がありました。はっきりした年代はわかりませんが、大変に女好きな住職がいて、檀家の後家や娘に手あたり次第手をつける困った生臭坊主でした。あるとき村の若者が酒の勢いを借り、あの坊主はけしからんということで、坊主を呼び出し袋叩きにしてしまいました。坊主が気絶したのを、殺してしまったと勘違いして、これは大変と坊主をす巻きにして川へ投げ込んで逃げてしまいました。

川の水の冷たさで、坊さんは息を吹き返し事の次第を代官所へ訴え出ました。たちまち六人の若者が、下手人として捕えられて投獄されてしまいました。訴え出た坊主の方にも非があるということで坊主は追放され、六人の若者は今の終身刑にあたる刑罰を言い渡されたのです。その後六人の若者は、次々に牢死してしまいました。

村人は六体の石の地蔵を刻み、若者の供養をしたのです。その後寺が火災で焼失し、現在の久我山共同墓地の南側に再建された折、その地蔵尊も移されてきました。墓地入口に今もある、六地蔵がそれです。

再建された寺には寺小屋があり、明治になってからも一時小学校として使つたこともあったようです。私の父は、その学校へ通ったそうです。そこで教えていた渡辺先生が、のちに高井戸第一小学校の初代校長になりました。その寺も、明治のはじめ頃火事で焼けてしまい、今では久我山には寺はありません。

卯三郎爺さんと仏様

これは隣の卯三郎爺さん(註、久我山四ノ三七ノ二五秦安雄さんの祖父)の家のことです。昔から雑木林を持っていない農家は、燃料に困っていました。どこかで木を切ると、われ先にその根を貰ったものです。卯三郎さんの家でも、かなり遠くの方まで根を掘りに行っていました。

あるとき、八反畑の先の雑木林で木を切ったというので、私の父や卯三郎さんが根を掘りに行きました。卯三郎さんが大きな松の根を掘っていると、土の中から仏像が出てきたのです。これは仏の引き合わせだと、卯三郎さんは大喜びで家に持ち帰りました。その仏像は、今でも仏壇に祭られています。

早桶かついで次郎吉さん

事のおこりは、お伊勢参りからです。 明治二十年頃、村の有志が連れだって伊勢参宮へ出掛けたのです。別段変った事もなく全員無事に宇治山田の宿に着きました。風呂から上がり浴衣に着替え、いつもの通り宴会になりました。さて宴もたけなわになった頃、中組で材木屋の秦五郎さん(秦重吉さんの祖父)と西組の秦次郎吉さん(秦栄次郎さんの祖父)が、些細なことから喧嘩をはじめてしまったのです。もともと二人は仲が悪かったのですが、まさか旅先で喧嘩になるとは思いませんでした。それでも大勢の村の人がいたのでその場は収まり、とにかく伊勢参.りを済ませて帰宅しました。

家へ帰ったものの、次郎吉さんはどうにも腹の虫が治まりません。翌朝早く桶屋へ行き早桶(註、死体を入れるそまつなかんおけ)を買い求め、伊勢参りのときの旅姿に着替えて早桶をかつぎ、喧嘩相手の五郎さんの家に駆けつけました。次郎吉さんは材木店の土間で早桶に片足をかげながら大きな声で、五郎は居るか、喧嘩のやり直しにきたぞ、出てこい、と怒鳴ったのです。五郎さんはその声で目を覚ましましたが、あまりの剣幕に驚いて裏口から逃げてしまいました。そのことを聞きつけた村人や伊勢参りに行った仲間が駆けつけ、次郎吉さんをなだめ、ようやく仲直りの手打ちをし喧嘩を収めたということです。この話は、後々まで村の語り草になりました。清水の次郎長の子分、桶屋の鬼吉が早桶かついで黒駒の勝蔵のもとへ喧嘩状をもっていった話がありますが、久我山でもこんな話があったのです。

チョンマゲの高麗さん

神社の下にある八百勝さんの祖父、高麗さんは昭和の初めに亡くなりましたが、すこし変った人で、死ぬまでマゲを結っていました。山奥の人ならまだしも久我山のような土地では非常に珍らしい事です。大正の初め頃までは、三鷹村の井口新田辺りの人で、マゲを結って馬車を引いて街道を通った人もいましたが、そのうちに亡くなり、最後までマゲを結っていたのは高麗さんぐらいでした。

冬の日など、暖かい日向で妻のカネさんがマゲを結ってあげているのをよく見かけました。また、マゲの人が小刀とか薪割りを日向で研いでいる様は実に異様で、子供など恐がって遠くをまわって歩いていたものです。久我山のチョンマゲの高麗さん、といって近郷一円に知れわたっていたもので、世の中にはずい分変った人もいたものです。

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